双柿舎(そうししゃ)
明治の文豪:坪内逍遙の住居
シェークスピアの翻訳家としても有名な明治の文豪、坪内逍遙が、1920年(大正9年)から1935年(昭和10年)に亡くなるまでの15年間を過ごした住居。
坪内逍遥は、約9年間、荒宿(現在の銀座町)に住み、シェークスピア劇の翻訳や、戯曲「名残の星月夜」、「義時の最後」などを著しましたが、閑静だった荒宿が騒がしくなり、執筆活動に専念できなくなったことから、水口町に新しく建てたのがこの双柿舎です。
樹齢300余年と言われる柿の大樹が2本あることにちなんで「双柿舎」(そうししゃ)と呼ばれるようになりました。
邸内には、塔の形の書屋や筆塚があり、また、会津八一の筆による門の扁額なども見どころとなっています。
※庭園と書屋を見学できます。
<中門>
扁額の「雙柿舎」の文字は會津八一(秋艸道人)筆。寺山啄木刻(大正12年)
<本館(客間・書斎>
茶の間、夫妻の居間、本館2階の書斎は、創作、揮毫など特別な場合に使用した。
<柿の木>
双柿舎の命名のもととなった老柿のうち1本は昭和54年(1979)台風のため倒木。
「冬の庭に痩せ仁王とも立ちはゞる ふたもと柿の姿おもしろ」
「柿二つ夕日と共に門を染む」
※残る1本も枯死状態となったため、平成11年(1999)2月、逍遥生誕地の岐阜県美濃加茂市より蜂屋柿の寄贈を受け植樹。
<筆塚>
昭和12年(1937)逍遥3年忌に、夫人の思い立ちで建立された。石は自然石の筑波石。
この下には逍遥使用の毛筆と万年筆が花崗岩の函に納められている。碑の文字は會津八一。
<福之湯の碑>
昭和7年(1932)水口園に建立され、平成19年(2007)に双柿舎に移設。
高さ207cm、幅122cm、厚さ22cmの根府川石。
昭和3年(1928)の温泉鑿泉成功の折、逍遥はこれを福之湯と命名したが、さらに昭和7年(1932)その由来を記した碑を建立するに際し、水口園主水谷良雄の依頼により、題額・碑文を揮毫した。
「此あたり昔は見るかきり田畑さては八重葎生へるをか辺なりしを 里の大屋のあるし水谷ぬし移りゆく時需に鑑みて 大正十一年のはしめ先つ其一部を遊園となし 尋いて旅館を経営し 昭和二年の秋さらに鑿泉に着手せしか 翌年七月に及ひて所期の如くに竣工せしかは 湯に名を命すると共に其由来を誌さむことを予に需められぬ
そもや初川以西の地は泉脈ともしとのみ信せられ仮令試鑿するも常に失計に帰するを例としつるにひとり当園の主の何人よりも先きに斯くその功を全うせられぬること 是れ豈に不思議の天福にあらさらむや あはれ其天福よ この園の栄えのためになほいや湧きに湧かむこと正に此湯井の如くにもあれかしとの祝意をそのまゝに湯の名とはしつ
昭和七年八月吉日 隣れる家の柿のおやち 禿筆もてしるす」
<楽焼窯風の焼却炉>
生田福翁造。
「これやげに 楽やきかまど苦を知らぬ 福の翁の手づくりなれば」
「梅咲くやたれがのぞ窯に芋二本」
<ヤブ椿>
逍遥没後六十年にあたる平成7年(1995)の逍遥忌に、逍遥生誕地の岐阜県美濃加茂市より「ヤブ椿」の贈呈があり、植樹された。
<逍遥書屋>
昭和3年(1928)完成。
和漢洋を折衷した逍遥自身の設計。塔の胴体、屋根は和を表し、勾欄と亀腹は漢を、屋上のバトルメントは洋を表現している。
塔上の風見の翡翠(カワセミ)橄欖の葉は會田富康作。翡翠はシェイクスピアの「キングリヤ」中の文句によったものである。
<東館(離れ)>
夫人の隠居所として建築。昭和9年(1934)完成。
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<坪内逍遥墓所>
「海蔵寺」・・・双柿舎から南へ徒歩3分。法名「雙柹院始終逍遥居士」